8.幸福のうたを君に



こんな天気をどう表せばいいだろうか。散歩日和、昼寝日和、洗濯日和…
「朝日の国の男神様、良き日を感謝します。…本当にいい日で良かったわ」
ふわふわした髪を揺らして祈りを捧げた少女は満足そうに笑った。
彼女にとって、今日はまさに旅立ち・・・日和。
「……本当に行かれるのですか、チェルリス様」
丘を半場飛び跳ねる様に歩いていたチェルリスは動きを止めて振り返った。そこ には見慣れた世話係が栗毛の馬を引いている姿があった。
「ええ…わたしにはどうしても、成し遂げたい事があるのよ」
チェルリスはそっと胸に手をやった。輝く首飾りに触れて力強く頷く。
「たいしたことじゃないの…ただ、前から決めていたのよ。もう…猶予がないか ら」
だから今旅立つのだ。心残りも後悔もありはしない。
家の事では母の体調も改善が見られたし、現当主の祖母もあと三十年は生きそう である。父もいるし、いざとなれば都にいる兄がかけ戻ってくるだろう。
(ウェス兄様もお元気かしら…)
しばらく会っていない兄を思ってチェルリスは笑った。きっとあの兄の事だから 自分が旅立ったと聞いたら手に追えないほど心配するはずだ。再会した時には怒 られるだろう。でもそんな兄の願いだって自分は負っているのだ。
絶対に、彼を探し出してみせる。
「だからね、何度も言ったけれど、無理してあなたがついてくる必要はないのよ 、シーホーン。護衛なら他にもいくらでもいるし、わたしは最低限自分の事は出 来るつもりよ」
数日前から繰り返す質問の最後の確認も、世話係は最初と変わらず、頑に答えた 。
「いいえ、チェルリス様を他の人間に任せる事など私が許せません。……それに 、妻からもよく頼まれましたから」
シーホーンの妻は、チェルリスの唯一の侍女であるフィンドだ。二人はチェルリ スを介して知り合ったのだ。妙な偶然にチェルリスはいつも嬉しくなる。
「本当にあなた達は真面目なのよ……まったく、これでまた逃げずらくなるわ」
「お、お嬢様、まさか旅先でもお逃げになるおつもりなのですか!?」
チェルリスはシーホーンに舌を出してから丘を駆け上がった。息を切らしててっ ぺんに立つと、愛する街が、遠く小さく見えた。
涙を流したあの日を忘れてはいない。つらい運命もいつかは遠い思い出になる、 だからわたしは行く。
辛くなるのはこれからだという事と、思い出を懐かしむほどの時間がない事は考 えなかった。この時はただ必死で、人間らしい事を考えられるようになったのは 、願う者を探し出してからだった。この頃はただ真っ直ぐ進む事だけが頭にあっ た。
チェルリスは街に向かって、優しい風を吸い込む。もしかしたら、もうここに帰 れる事はないかもしれないから。
(ううん、絶対帰ってくる……彼を連れて)
次に漏れ出した吐息は、淡い旋律を奏でていた。
自分の前には見えない不安が覆ってゆくようで。でもあきらめかけていた夢に近 付けるのも確かで。その気持ちを精一杯歌に乗せた。
(やはり…お嬢様の歌声は王国一だ)
荷物を担いでやっとの事で追いついたシーホーンは、穏やかに唇を緩めた。王国 一は国一番の誉め言葉、彼女の歌はそれに値する。
シーホーンはチェルリスの事を心配していた。神殿から戻って来たあの日から、 彼女は少し変わった気がしたからだ。ただの世話係である自分には憶測を立て彼 女をそれなりに気遣うくらいしか出来なくて歯がゆい思いをしていたのだ。
でも、この“歌”が歌える限り、彼女はきっと“チェルリス”なのだ。
優しく、前向きな旋律は晴れた日の街の風に乗り、美しくも何処か悲しく響き渡 ったのだった。



何となく誰かに呼ばれた気がして、少年は視線を本から窓に上げた。
日がかげり始めた時間帯のこの室は気味が悪い様な微妙な明るさをしている。
ここは、ウエストリア城の重要書簡を保管する書庫だった。昼間は大抵官吏や城 の役人が数人出入りしているのだが、この時間になるとがらんどうになる事も多 かった。それをいいことに最近では新王太子が自分の居場所としているというも っぱらの噂だ。
気のせいだろうか。少年はもう一度本をぱらぱら見て盛大にため息をついた。
「…あーまた外れ、かぁ」
バタン、と重い書物を閉じる音と高い声が天井に響く。スワンは息をついて閉じ た本を左によけ、右に積み上げた本に手を伸ばし、またページを繰り始める。
本を読む事自体は好きなので苦痛ではないが、こう目的の本が見つからないとさ すがに気がめいってきた。ついでに本当は最初に目を通したい数学書やらなんや らがででんと積み上げられている本棚を通りすぎて調べ物をしているのもあるが 。更に昨日探していた物理研究論文の写本も見つけてしまったというのに。
「王宮の書庫ならもっと内容の濃い歴史書置いて欲しいよ…」
一度本に突っ伏して文句を言って見るものの、結局大好きな書物よりも調べ物を 優先してしまう自分がいる。
最近は軍にいた頃染み付いた乱暴な口調もすっかり抜けてしまい、元のややおさ なげな口調に戻った様に、気質もだいぶ昔に戻りかけている様だ。複雑な気持ち だ、一度不条理な殺戮に手を染めた人間がこうも簡単に元に戻ってよいのだろう か。
(まあ、どちらにしろぼくは拐われる前の貴族の養子になんか戻れるわけないけ ど)
王太子という身分から言っているわけではない。自分は、きっと変わってしまっ たから。
「…また、書見ですか?本当にお勉強好きな皇子様ですこと」
突然、後ろから若い女性の声。スワンはその主をすでに見知っていたので特に驚 く事なく彼女を振り返った。
「シャリル?」
シャリルと呼ばれた美しいがやや影がある女官は、手に燭を持って立っていた。 逆行に少なからず不気味に映る。
「もうだいぶ暗くなって参りましたから、書見をお続けになるなら灯が必要でし ょう」
「…いや、いいよ。そろそろ晩餐の時間だろう、わざわざありがとう」
スワンは席を立って積み上げた本を抱える。それを順番に元あった場所に戻して いくが、どうしても、一つの本棚が高すぎてそこまで手が届かない。
スワンはつま先だって本を掲げ奮闘した。取れたのだからしまえる筈だ…しかし なかなか手強い。
すると突然片手からするりと重みが消えた。見ると、一人でに本が本棚に戻っている 。背表紙に白い繊手がかかっていた。
スワンは振り返って兄が自分につけた女官を見上げた。
「ありがとう」
スワンは素直に礼を言った。内心、自分よりかなり背丈のある女性シャリル に複雑な気持ちを抱いていたのたが。
「本当に…不思議な皇子様」
指一本はぼくより高いだろう、どうすれば背が高くなるものかと真剣に思案を始 めていたスワンは彼女の声で我に返った。
「やっぱりぼくが皇子なのはおかしいかい?」
「いえ…ただあなた程のご身分のお方が女官ごときに礼をおっしゃるご必要はな いでしょう」
「う〜ん、でもぼくは普通の王族ではないからね。育った家ではちゃんとお礼を 言ったよ」
「……噂など、耳にしませんでしたか?私は普通の女官達より身分が低い生まれ です」
美しい女官の彼女の噂は確かに耳にした。シャリルという女官は町人の生まれな どころか、父は国罪人である、その容姿の良さから引き抜かれただけである。… それが事実かスワンは知らないが、別に知りたいとも思っていなかった。
「だけど、女官は女官に変わりないだろう?それならぼくの身分のほうが余程怪 しいさ」
スワンはまだ何か言おうとした彼女に笑ってみせた。
「灯をかしてくれないか?早く晩餐会場に行こう、遅れてしまう」
スワンは彼女がどんな闇を抱えているか知りたいとは思わなかった。ただ、悲し みを少しは和らげてあげたいと思ったのだ。
スワン・ウエストリアはそんな人間だった。人の闇を敏感に察知し、それを緩和 させる事をおのずから気づかずやり遂げてしまうという力を持っていたのだ。
それに掴まれてしまったのが、一重にクロウド王の在位が短くなった根本たる敗因である のかもしれない。



暗い廊下を歩いていたスワンは不意に開かれた窓の外を覗き込んだ。白い花弁に 爽やかな香りが満ちている。
花橘だ。初夏らしく花々は大きな実をつけるべく、花弁を開いて可憐な来航者を 舞っていた。ほどなくひらひらと、白羽を有する蝶が引き寄せられるように花の 上に乗った。
「皇子様?」
「シャリルには大切な人がいるかい?」
女官の声を遮ってスワンは思わずそう口にした。
風が耳を打って、髪が舞い上がる。懐かしい、甘い空気が頬を叩く。
主の突然の問いにシャリルは目を大きく見開いていた。余程驚いていたたのだろ う。
「え…あの」
「ああ、えっと別に深い意味はないんだ。ただぼくにはいるから皆いるものなの かな…と」
そう言ってからスワンは自分が結構ある種誤解を招く発言をした事に気がついた 。無理に答えなくていい、と重ねて言おうとした時、シャリルの唇が開かれる。
「ええ…いらっしゃいますわ。…ふたり」
思いもよらぬ真剣な響きにスワンは一瞬言葉を失った。しかし次の瞬間、あわて て笑顔を作る。
「そっか、ふたりいるんだ。シャリルに思ってもらえる人はきっと幸せだよ」
「いいえ…きっと、その方々は私の事などとうにお忘れになられているでしょう から」
夢を見る様に語るシャリルをスワンは密かに凝視した。そこに、昔の彼女が見え た気がする。彼女の遠い昔に笑顔を忘れてしまった横顔、スワンには理由は全く わからない。だけど…。スワンは口から自然とこぼれ出した言葉をシャリルにそ のまま伝えた。
「なら……」
背の高い彼女に耳打ちするように告げたスワンは他人から見ると奇異に映っただ ろう。大方、まだ幼い王子が侍女といたずらを共謀しようという程度だろうが。
「皇子様…それは」
勿論、本当は違う。
「いいんだ、ぼくが勝手に見つけるから…それくらいしかぼくはあなたにお礼が 出来ないんだ」
スワンはまた元の沈黙に返った。とうの昔に蜜を吸っていた蝶は姿を消している 。スワンは手を伸ばし、そっと花弁に触れた。手を握ればくしゃりと潰れてしま うだろう、柔らかい花弁をいとおしむ様に撫でる。
故郷では今年も彼女が、可愛らしい巻き毛にこの花を飾っているだろうか。
胸が引き締められる様に強く痛む。自分が彼女の髪に触れる事は赦されるのだろ うか。
(逢いたい…だけど傷つけなくない)
彼女はもう、自分の未来に気づいてるだろうか。
彼女にとってぼくはいなかった人間であったほうがいいのなら。
スワンは手を伸ばしていたシトラスの花をとって、軽く額に当てた。柑橘のつんとした、さわやかな香りが舞い降りる。目を閉じてその甘酸っぱさを噛みしめた。
全身にこみあげる感情を、どうにか食い止めるために。

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