9.笑顔を知らないこどもたち



王太子が席を立ったのは今宵の晩餐が始まっていくらもしないうちだった。そも そも今日の晩餐は春の茶会の成功を祝う盛大なものだったというのに、王は始め から姿を見せなていなかった。
春の茶会とは春の祭典の後に行われる、祭典の功労者が市民を招き再び芸術を披 露するものだった。今回も優れた芸術能力を持った役人達が集まり盛況したもの だ。
しかし今回の茶会の目玉は、彼らには向けられなかった。
王太子が晩餐会場から立ち去るやいなや卓を囲んだ貴人達がせきを切ったように 囁き始める。
「聞いたか?王太子様が…」
「聞いた聞いた。何でも元大将軍と剣の模擬試合して勝たれただって?」
「それだけじゃない、外語も五ヶ国は軽くお話になると聞いた」
「いや…でも数学や天文学も恐ろしくおできになると…」
今や突然現れた謎の王太子は貴人達を圧倒するものにまでなっていた。
小さな身体に秘められた恐るべき知能、身体能力。彼自身はそれを鼻にかけたり はせず、王に何かしてくれと言われると面倒そうに言う事を聞いていた。威張る 事もなく、かといって頭を下げる訳でもなく。時には目下の者にも労りの声を掛 ける。その性情は、評価に値するものだった。彼は…立派な王の器だと間違いな く誰もが思い始めていた。まだ、口にしないだけで。
「間違いなく天才だ、あのフィールドの御曹司をも越えられる勢いだ」
「おお、そういえば彼は何処に行ったのやら」
話題はいつの間にやら王太子から四年程前王宮から消えた天才貴公子に移った。
この事件は芸術という美しさに溺れて退屈しきっていた貴人達にとても刺激的だ ったのだ。
卓には次々に料理が運ばれ、満たされていた酒瓶は時間と共に杯へと流れる。甘 い竪琴の音が貴人達の話す下劣な噂を、何処かの国の美しい物語様に響かせた。
天才貴公子と美しい姫君の禁忌の恋物語。
彼らの声を聞きながら食事の世話をしていた王太子付きの女官、シャリルは密か に唇を噛んだのだ。



貴人達の囁き合いはいつの間にか会場外に響くほど大きなものになっていた。
「全く…ぼくがルカ兄様を越えられるわけないじゃないか…」
戻って来たのはいいが話が話だけに晩餐会場に入れない王太子、スワンは入口に 座り込んでぼやいた。全く、とんだ思い違いをされている。
スワンは暗闇の天井を見上げながら口端を吊り上げた。知らない場所で知ってい る人物の名を耳にするのは嬉しい事だった。彼自身…義兄の親友であった例の天 才貴公子はここにいるものだと思っていたからこの噂に驚いたものだ。
(道理でぼくが拐われる少し前から遊びに来なくなったわけだ)
他国と王室と婚約が成立していた王女を拐ってしまうとは、いかにも“ルカ兄様 ”らしかった。彼には“敗者”という言葉はまるで似合わない…自分と違って。
新しい“兄”の言葉を思い出して、スワンは頭を下げた。流したままのさらさら の銀髪が首にまとわりつく。
知っていた。彼は自分が王になれればそれだけで良かった。優秀な王太子がいれ ば、邪魔なだけ。もしスワンが馬鹿だったらそのままにされたかもしれないが、 今、王が自分が反王家軍団に所属していた事を蒸し返すのは予想よりむしろ確信 していた事だ。
『しかしね…私はそなたを気に入っているんだ。だから処罰を軽くしたい…そな たに勅命を下す』
無事成し遂げれば、お前の罪を不問としよう。
「王…兄上の妻を王宮から拐い、逃亡した男の命を奪い、妻を連れ戻す事」
成し遂げてやろうじゃないか。どうせ死ぬ運命でもあの兄に殺されてやる気には 到底ならなかった。
(人の命を奪う…これまでだって散々やってきたじゃないか)
左手のひらを握り締め、込み上げる迷いを封じ込める。彼女は、自分がそんな事 をしたら悲しむ。それだけがただ身をさいなんだ。
もし、彼女がいなかったら自分は何をしでかすのか知れたものじゃない。そう思 って、嗤った。
「…チェルリス」
君はこんなぼくでも、昔の様にまた手を繋いでくれるのだろうか。



「…ん〜80シリャ、フロウ、これ安いんじゃないのか?」
「はぁ?何言ってんのよ馬鹿が。これじゃぼったくりだよぼったくり」
昼間の市場を共に歩いている乙女の、日に日に悪化…いやくだけていく口調にへ ヴンは首を傾げた。
「ぼったくり…?」
「あ〜…つまり騙されて高く買わされるってことさ。全くだから育ちが良すぎる のもだめなんだよ」
そういうものなのか。へヴンは無理矢理納得すると彼女の買 い物には口を鋏まない事にした。
フロウの美貌は田舎町の市でも目を引いた。しかしその口の悪さからか、よって くる人間は多くはない。それでも時々やって来る下品なおやじ共を適当に片付け るのもへヴンの役目だった。
何せ栄養を取りつつ大切に育ったからか背丈は充分あるし、体術、剣術共に神様 直伝だ。へヴンより腕の勝る武人もそうそういないだろう。
「で、何食べたい?」
フロウが尋ねてきたのでへヴンは視線を少し下げた。
「…辛いもの」
「却下!昨日も一昨日も唐辛子だったじゃないか」
フロウはへヴンの言葉を一刀両断した。なら聞くな、へヴンは密かに呟く。
フロウは道端の露店に足を向けた。乾いた地べたに薄い布を敷き、その上に果物 をこんもり盛り合わせた店だ。
蜜柑オレンジか。珍しいな、季節ではないのに」
「うん、じゃあ今日はこれにしよう。肉野菜ばかり食べていたからちょうどいい 」
フロウは一人頷くと敷布に座った少年に声を掛ける。深く薄汚れた頭巾を被った 少年が顔を上げる直前に、へヴンははっとして顔を上げる。
「ま、待てフロウ!今何て言った?蜜柑が夕飯だって…」
「いいじゃないか、甘くて美味いし。高級品だろう?」
フロウの答えはにべもない。
「ち、ちがう、だから普通それはデザートだ!そんなだからそんなに細いんだ」
「何?この贅沢男!蜜柑がデザートなんて何処の金持ちだ」
「私の感覚は…普通…じゃないのか…?」
「ああ、そうそう。普通じゃない」
フロウは適当に言い放った誰でも気づきそうな嘘を本気で信じ込んでしまったら しい。へヴンはそれきり黙り込んで下を向いてぶつぶつ言い始めた。フロウは思 わず笑みをこぼす、なんか可愛い。
この少年に出会ってから、自然と笑えるようになった。昔に戻ったようだ、と考 えてそれは少し違うと気づく。
フロウが普通に笑うようになったのは、つい最近。
「フロウ!それならせめて甜瓜メロンにしてくれ」
「高い。あんたの嗜好は高級品から離れるべきだ。あたしはあんな甘いものは食 べられない」
「結局あなたの嗜好じゃないか…」
へヴンは敗北を認めて深くうなだれた。世間の女(と少なくともへヴンは思って いる)厳しさをまた一段と深く感じる。
その姿を目の端に捉え、フロウは慈しみに近い微笑みを宿したのだ。



終末の王子の定め、それは逃れようのない国の破壊

伝説の乙女の定め、王子達から国を守るため身を捧げる事

「それならいっそ二人が恋でもして、一緒に死んじまったほうが楽じゃないか」
そう言う人間もいる。
過去に、そういった王子と、乙女がいた。
結果は、ルピナス王治世の男神と女神の紛争と並んで、最悪とされている。
当時の王家は倒れ次に玉座についたのはその呪われた王子と、乙女の一人息子だ った。
その名を、エンジュ王という。五歳という若さで王の地位についた彼は、黒き山 脈ジェットブラック・レインジに臨時の御殿を築き、戦乱を治めた。
彼の言い残した言葉はこうだった。
『愛は時として、武器よりも残忍な力となりえるだろう』
聡明な若き王は、二人の王子を残し二十五という若さでこの世を去ったのだ。

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